【アラベスク】メニューへ戻る 第7章【雲隠れ (後編)】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第3節 流砂の底 [2]




 この状況でも眠れるのか?
 もっとも眠ると言うより、ただ頭がボーっとしていて、思考が停止していただけかもしれない。
 その薄鈍(うすのろ)くなってしまった頭が、淡々と警告する。
 このままで済むとは思えない。
 美鶴は視線を動かす。両手を縛る紐か縄か、それが近くの椅子の足に繋がれ、狭い範囲しか動くことができない。
 前にも一度、縛られた事があった。あの時は、タオルのようなものの上から巻かれていたように思う。縛られた痕が残らないようにするための小細工であったのだろう。
 だが今は、その紐なり縄なりが直接食い込む。
 かなり痛い。右手の親指は感覚がない。薬指と、左手の親指もジンジンと痺れる。これらが感覚を失うのも、時間の問題だろう。
 最初は脱出なども試みてみたが、今はもう疲れて床に横たわる。
 真相を知ってしまったんだから、このままでは済まないだろう。
 やはり、殺されるのだろうか?
 さすがに恐怖を感じる。だが、死というものの存在がなんとなく漠然としていて、現実の事として受け止められない。
 駅舎で以前、殺されかけはした。だが美鶴には、飼い犬や飼い猫との死別という経験もないし、身内の不幸という出来事にも直面した事はない。
 殺されかけても、殺されはしなかった。今だって、このように監禁されてはいても、結局は生きている。
 その現実が、美鶴に甘い考えを抱かせているのかもしれない。
 だから、こんな状態でも空腹を感じてしまう。
 いつまで、このままなんだろう? 里奈たち、どこ行ったんだろう? 何やってんだろう?
 出て行った扉を見つめる。だが、開く気配など微塵もない。
 里奈―――
 中学の卒業式以来だから、一年半ぶりということになるか。
 言葉など、もっと長い間交わしていない。
 そうだ。美鶴がフラれて以来だ。
 あれ以来、二人はマトモに会話していない。

「美鶴に嫌われたら私、生きていけない」

 私って、そういう存在だったんだ。
 意外な事実に驚きはする。だが、不思議な気持ちだ。
 ショックというワケではない。もちろん嬉しいとも思わないし、だが腹ただしいとも思わない。
 ただ、里奈が自分のコトをそんなふうに思っていたのかと、その事実にただ驚く。
 そんなふうに―――
 じゃあ自分は、いったいどう思っていたのだ? 自分は里奈にとって、どのような存在だと思っていたのだ? そして自分は里奈を―――
 瞳を閉じる。何も頭には浮かばない。
 浮かばない。だって、今までそんなこと、考えたコトなかったから。
 里奈にとって自分がどのような存在なのか。そのようなことを、考えたコトはなかった。
 他者にとっての自分。
 初めて目の前に突き出された概念。
 いや、初めてではない。以前にも一度、目の当たりにしたことはある。

「田代さんにしてみれば、いい迷惑なんだと思うけど」
「所詮、大迫さんは田代さんの引き立て役よね」

 奈落の底に突き落とされたというのは、こういうことを言うのだろう。それまで一度だって、考えたコトはなかった。
 自分は里奈にとって、単なるお飾り?
 それがどれほどの衝撃だったか、それは誰にもわかるまい。
 わかるものかと歯を食いしばった。
 あれから約二年半。
 これが真実? 私はただ誤解していただけ?
 だが今さら、今さらそれを素直に認められるほど、美鶴は寛容でも心豊かでもない。
 自分はどうすればよかったのか?
 里奈の話をちゃんと聞いていればよかったのか?
 あの状況で?
 澤村優輝にフラれて、周囲にバカにされて、それでも冷静に里奈を信じろと?
 すべては私が悪かったと?







あなたが現在お読みになっているのは、第7章【雲隠れ (後編)】第3節【流砂の底】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第7章【雲隠れ (後編)】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)